『学級委員長と私』 vol.1
一日の終わり、学級委員長が誰もいない教室を出る前に全ての椅子をきちっと机に収めていた。
一人それを目撃した私は学級委員長をからかった。
「今度皆に言っておくね?」
彼は真顔でやめろよ.とだけ言った。
結果的に私は皆には言わなかった。
彼の彼だけのプライドを保つには他の人間はそこにいらなかったからだ。
私は彼と幼馴染であり、親友でもあった。
彼は彼が正しいと思うことで友人と喧嘩になった時に泣いたことがある。
喧嘩に負けるような男ではなかった。
けれども、彼が言ったことは正しかったのに、その男の子は反発して学級委員長を一発殴ったのだ。
それが彼にはどうにもショックだったんだと思う。
私はその場で一部始終を目撃したが、相変わらず何も言わなかった。
小学生の男の子というのは、何ともいえない感情を持ち合わせていて、私はそういうものに触れる度に心が締めつけられた。
恐らく、私も全く同じものを持っていたからだ。
その頃の男の子は大体二通りに分けられる。
学級委員長の様に正義感を持つか、あるいはその学級委員長に反発した男の子の様に先生や権力(権力と呼べるものなのか定かでないが)にただただ反発したがるか、だ。
勿論、私は後者だったのだが、学級委員長の親友を持っていたからか、勝ち組(権力)と思われている側の男の子の気持ちも十分にわかっていた。
私は矢張りその時からどちらにも属さずにどちらの気持ちをもわかろうとしていた。
また今思うと、贔屓目なしで私はちゃんとどちらの気持ちをもわかっていたのだと思う。
融通がきくのか八方美人なのかわからないが、兎に角私は行動としては後者でいて、同時に前者の人間にもsympathy(共感)を感じていた。
私はいつもそういう光景をただ見てきた。
無意識に差別や偏見について小学生の頃から考えていたんだと思う。
だけど、それは弱者と言われる人たちを助けたいというよりも勝ち組と思われている人間の哀愁や哀しみに触れた時にこそ、感情が動いたものである。
大人になってわかったことだが、正しいことを大きな声で叫ぶことは格好いいことなんだ。
勿論いつだって叫んでいい訳じゃないし、適材適所というのは言わずもがな、である。
実際に、私がそうできる様になったのは、その頃から8年ほど経った時だった。
大人になるにつれて感情や正論でものが言いにくくなる。
それは小学生が、ただ闇雲に正しいことは正しいと思って言うこととは異なる。
大人になると感情を表に出したりしては、正しくても言ってはならないことがあることを学ぶ。
でも私は言う。
それは、小学生の頃に学級委員長の親友の横に並んで正しいと思うことを叫べなかったその頃の私の懺悔であるし、またその報いでもある。