「美の純度を保つ為に」
私はあまり徒党を組んだりはしませんが、同志は矢張り必要だと考えています。
ひとりでは哲学できない。
哲学が一人歩きしている状態なんてあり得ない。
どつちかぢゃないの、どつちもなの。
俗物でありながら超人、哲学者でなきゃならない。
哲学や戦争は日常とは切っては切り離せないものだから。
「わたしは、芸術というものは芸術だけの中にぬくぬくとしていては衰えて死んでしまう、と考えるものであり、この点でわたしは、世間のいうような芸術至上主義者ではない。芸術はつねに芸術外のものにおびやかされ鼓舞されていなければ、たちまち枯渇してしまうのだ。」
一つの哲学を貫かなくてはならないことはない。
それは滅び、また燃え上がるものだから。
形を変えながら、ね。
その連続でしかない。
終わって、また違う哲学をやればいい。
なにも一貫性があればいいってもんではない。
でもそれはあくまで一貫性を持った哲学を貫いた結果言えることである。
あなたにとっての今正しいと本気で思えることをやればいい。
それは振り返った時、あなたに何らかの道を示すだろう。
それが真っ直ぐな訳がない。絶対ない。
ときには何も考えたりしなかったりすることが哲学だったりもする、あなたの、ね。
哲学というのは哲学なはずなの。
哲学は普遍でいて相対的にわかるものである、はず。
私はそれが美だと思う。
というより美に普遍性を持たせたいの。
先ずは(自己)哲学、自分の美的価値観を見つけて究めなくっちゃ。
そういう意味でも入りとして、客観性を持たせなくても全然構わないものだ。
その客観性のない自分の哲学を貫き、色褪せることなく、他人に見せられたなら、それは自然と普遍性を帯びる。
あとはテクニックの問題でもある。
そのテクニックの一つとして、学歴やファッションが必要なの。
うーん、磨くって表現だと私としてはしっくり来ないんだが、私の哲学や美は出来上がった瞬間MAXなの。
赤ちゃんみたいにピッカピカなの。
確かにダイヤモンドは原石だと汚い石だから磨かないといけないんだけど。
私はね、燃え上がるように出来た哲学や美をそのまま色褪せることなく見せたいの。
生の美を。
残酷でとても美しく、ときに気持ち悪く醜い。
で、それを見せる人、つまり私ね、私がそれをそのまま見せられるように私の信用度をあげるの。
そうしたら見てもらえるでしょ。
伝わるかな?
だからその美しいものを磨くというより、私を磨くの。
そのときには政治やコネが必要になるかもしれない。それこそテクニックの問題なのかもしれない。
よって、見た目やらも必要となる。
そのようにして自らの力で発見した美しいものほのものを磨かないで、自身を磨くの。
自身を磨くということは、その美の純度を保つということかしらね。
それを見つけた瞬間、真空パックに閉じ込めます。
そのまま眠らせます。
そして頃合いを見つけて、私がそれに見合う美しさに適った時、自然にその生の美は真空パックから現れ、皆を驚かすことになるだろう。
結果的に私を磨くということはその真空パックの中のものを磨くことになる。
何かを守るにはそれを沢山のものに晒し続けなくてはならない。
例えば誰の目にもつかないところにそれをしまっておけるとしたら、そんなものは無くなってしまう。
日本刀がとても美しいのはその切っ先の曲線の角度がそのままずっと変わらないからだ。
何とも言えない曲線美である。
それを披露する場というのは現代では刀剣美術館であるが、以前までは人を殺める瞬間であったはずだ。