prêt-à-porter

私が関わった人間は全て私の作品である

「不快感」

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でもね、人を馬鹿にしてイジっている人間が自分の感じたこと、そしてそれによって導かれた行為について、(覚悟や責任を持って)論文のような形で示すことができなかったら、そもそも人を馬鹿にしたりイジったりする権利すらないんじゃないかな、と私は思うのよ。
 
私はね、まず目の前の人に不快感を与えたくないの。
それが前提。
もちろん、どんなに頑張って気を遣っても気を遣いすぎることはない。
要するに、どんなに気を遣ってもどこかしらで目の前の相手は不快感を抱くと思う。
それは生まれも育ちも異なる他人だから仕方がない。
でも、私はそれを最大限少なくしようと努めている。
 
私の求める素晴らしい世界というのは、全ての人間が「自身の全ての言動が自分の支配下にある」人間であるという世界なんだ。
 
人に不快感を与えなくなかったら、人が何に怒るか、悲しむかを知ることじゃない?
それで言えば、日本という特殊な文化圏では、日本の文化に則した振る舞いが行われるべきだと私は思うわけよ。
 
帰国子女がどんなに英語と日本語を半々に織り交ぜて喋っていても構わないよ。
でも、それが目の前の人に不快感を与える可能性があると考えないことが、自分の世界だけが正しいと思いそのまま平気でいることが気に食わないんだ。
相手に不快感を与えていないかを考えていないなんて、それこそ日本文化を理解しているとは言えないでしょう。
 
だから、仮にその帰国子女が英語と日本語を織り交ぜて喋ることを不快に感じる人がいることを知っていたとしたら、私を不快にさせるために喋ってるんだな、と思ってもいいわけだよ。
彼ら、彼女らは選択をしたんだから。
選択の裏には覚悟が存在するはずだし、その行為に及ぶには必ず責任が伴うはずだから。
 
2014.7.10.
 
また、私が何故そんなに熱量を持って馬鹿な人間を馬鹿にするかというと、もう一つだけでもいい、選択肢を持ってもらいたい、視野を広げてもらいたい、客観性を持ってもらいたい、ということなんだ。
 
英語と日本語を半々に織り交ぜて話す帰国子女が、それは目の前の相手に不快感を与えるかもしれない、というもう一つの選択肢、視野を獲得し、誰の前でもわざと日本語英語を話すようになるとする。
 
私が本当に求めているものは、そんな帰国子女が私の前でだけネイティブな発音の英語を披露してくれるというものだ。
 
2014.7.11.
 
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