prêt-à-porter

私が関わった人間は全て私の作品である

『朝鮮学校の位制度』 vol.5

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私の通った学校を、アウシュビッツ収容所と呼ぶのには日本の教育機関と違い、まるでナチスのように位(くらい)制度を導入したことが一つ理由にある。

あの学校では、学生に位を用意している。

教師が生徒を選んで、学級委員長や副学級委員長やらに任命する。それは秩序を保つ為につくられたものなのだろう。
それはクラスの中で、生徒間に絶対的で圧倒的な優劣をつくる。

基本的には、成績のいい順番に位を与えていく。同時に、人間として真面目な生徒を選ぶ。先生たちが決めることだから、詳細はわからない。

普通、日本の教育機関だと、静かで黙っている真面目君にみんなで押し付けるものであると思う。
しかし、小学生にこういう制度の中で位を与えると、自分に弟や妹が出来たみたいに、少し立派な人間になった様な気持ちになるのだ。この制度は、それを逆手にとっている。

私たちは、学級委員長を馬鹿にすることはなかった。むしろ、学級委員長に敬意を払っていた。位を持つ人間と平(ヒラ)の人間との間には何だかの境界線が見えた。
平の学生は自分らは馬鹿だから、という風に自虐的になっていった。
そうやって、学校では小学校四年生から、位のあるものとないものとで分けられていき、それに従ってそれに見合うような人間になるように学生たちもなっていった。
そんなような気がする。

環境や立場が、人間をつくる。

ちなみに、私は四年生から六年生までずっと副学級委員長だった。
相当に偉い人間だったといえるだろう。


既に述べたが、本当に不思議なもので、位を与えられると人間はそれに見合った人間になろうとする。
そして、位についていない人間は猛烈な劣等感や背徳感を感じるようになる。
そこで勉強を頑張ろうとか、こいつら阿呆だな、仕組みがおかしいなどという余裕を持てる小学生はその時代にはなかなかいない。
私は愚民なのだ、と諦めてしまうのだ。

このシステムという地獄、あるいは天国は、大人であろうが子供であろうが、抜け出すのに一苦労である。
私たちはあくまで社会で生きていて、周りから評価され、周りと協力して、競争して、生きているからだ。この組織から簡単に逃げ出せるはずもなかった。ましてや、小学生なのだから。

本来、そういう競争のない世界をマルクス主義は説いたはずなのに、その社会主義そして共産主義思想を盲信しているはずの北朝鮮系の人間が運営する私たちの通った朝鮮学校は全くもってそんなものにあやかりもせず、相変わらず資本主義、自由経済という社会の仕組みの中に私たちを放った。
まぁ、それはもまた仕方のないことのようにも感じる。私たちの生きている場所というのはこの日本という国であるからだ。


次に、朝鮮学校北朝鮮系なのか、韓国系なのかについて話そうと思う。

ここは日本にいる人も外国の人もよくわかっていないところだ。
私は人生において、何度もその説明をしてきたがイマイチ相手にうまく伝えられたためしがない。

私の祖父が、どのようにして日本に辿り着いたのか、そして朝鮮学校がどのようにできたか、を話してみようと思う。



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