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prêt-à-porter

私が関わった人間は全て私の作品である

「運命cf運命的」

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運命であることよりも運命的であることが私にとっては大切である。

本当の、本物の「運命」というのは、私は最初から決まっているのではなく、自ら、あるいは二人でつくるものだと考えるからである。

「運命」というのは必ず一人ではつくることのできない代物なのだ。


例えば一つに、自、他、神の認める運命があるとしよう。
もう一つに、そうではない、私にとって大切な運命的な「運命」があるとしよう。


前者の運命というのは、宿命に近い。
決まり切った、決められた、抜け出すことのできない、という意味だ。
確かに差別的で圧倒的だ。


実存主義の話でもここでした方がいいのかな?)


そして後者の運命的な「運命」というのは、もうはっきりと言って、どんな人間とだって、究極は動物とだって、運命的な存在になることができる、ということだ。
私が思うには後者の方が差別的で圧倒的だ。
何故なら一人ではなく、二人でつくるものだからだ。誰にも真似ができないからだ。二人いたら一人よりも多くの耐性を整えられる、DNAが一対になって存在している様に。

前者より後者の方が救いがあり希望があると私は思う。
どんな人とだって「運命の人」になれるのだから。

そう、そして一人では到底哲学などできない様に、二人でこそ哲学というのはやれるのである。

後者は、そういうことだ。


私の思う運命的な「運命」というのは
相手に運命と感じさせることができなくては運命ではないということなのだ。



二人以上に共通認識として存在する神なんてものは必ず存在しない。


もしそれがあると言い張るのなら、間違いなく、どちらかか両者の勘違いだ。

ただ後者は、二人でつくらなくてはならないものなのだ、しかもそれはエゴイスティックな二人だこらこそできるものであって欲しいと私は願う。

繰り返すが、後者は、最強の個人主義同士が出会わなくてはなるないのである。
私はそう思っている。

個人の力、嫌な言葉だが、個人の努力なしには運命的な「運命」をつくること、目の当たりにすることなんてできない。

要するに運命であることよりも運命的であることの方がはるかに「運命」であるということだ。
勿論私にとってだが。


※番外編

いつも目標や目的地を自分が定め向かっていると、気がついたら隣にいるの、ある誰かが。

-共犯的視線-

会話なんていらないのよ

同じ場面で同じものを見て

同じ思考回路で同じことを口に出す

その一歩手前で目が合うの


いつもいつも目標を変えたり、狙っている獲物を変えても、隣にいるの、知らぬ間に。

女が『また、あなた?』

男が微笑む。

それが運命的だと思うの。




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@ 秋