掌編小説『革靴専門店』
気が付くと、目の前に靴屋があった。
革靴専門店のようだ。
高級革靴店ではないようだが、そこいらの革靴店でもない。そのちょうど間くらいの門構えをしている。入り口は小さいが、店は大きな道路に面している。いわゆる路面店である。山手線のS駅とH駅の真ん中くらいに位置している。
私はその靴屋に入った。
扉を開くと、いらっしゃいませの声掛けが私に向かってされた。店員は私と目が合う前に私の靴を一瞥した。その後で私の目を見てにっこりと微笑んだ。
私はその場をすぐに立ち去りたかった。私はスニーカーを履いていたからだ。それに接客をする上でその品物を扱っている店員が客の身につけているその品物を真っ先に見るだなんて言語道断。失礼極まりない。
しかし私は妙な好奇心を持ってしまう。このような接客をする店員が他にどのような致命的な接客を今後するのか気になったのだ。私はただその好奇心のみでこの店に留まることにした。
店員は一人しかいないようだ。小さい店だった。しかしそこには沢山の革靴が綺麗に配置され、革の匂いが充満していた。私はこの匂いが大好きだった。品物もちゃんと選んできたものらしく店員は満足気な笑みを常に浮かべている。いわゆる靴のセレクトショップだった。恐らく私が声を掛ければ、サイズを聞きそのサイズの革靴を笑顔のままこの店員は出すだろう。
でも私はこの店員との直接的なコミュニケーションなしに、例の接客を見たかった。店員は相変わらず笑みを浮かべている。ふと店員の靴を私は見た。店員はスニーカーを履いていた。
あるまじき……、と私は思った。革靴専門店の店員がスニーカーを履いている。それで先ほど私より先に私の靴を見たのか。
私が店員の靴を見たせいか、一瞬にして店の雰囲気が変わったように思えた。もう革の匂いも一切してこなかった。
急に店員が私に近寄り話し掛けた。
「見ましたか?」
私は戸惑った。
「見ましたか?」と店員は念を押してきた。優しいような怖いような声だった。そこには感情の機微など一切ないようにとれた。
「何をです?」
「私の靴をですよ」
「いえ、見ていません」
「では私の靴が何なのかお分かりでしたらこの店の靴を一点無料で差し上げます。さあ当てて見てください」
店員の足元を見ると、真っ黒いビニール袋で両足とも覆われていて、上の方できっちりと結ばれていた。目が合うと先よりも強く微笑みながら店員は言った。
「さあ、お客様、お当て下さい」
続く)
2014年04月29日
秋人間
「回想記2」
しかし、それはいわゆる性欲とはかけ離れたものだった。ほとんど乳離れができていないことと同義だったように思う。
もしかすると、人間はお母さんがいないと生きられないのかもしれない。その「お母さん」というのは、特に血の繋がりを求めない、誤解を恐れないで言うと、ただただ「おっぱい」ということだ。
成人の性欲とは違えど、私は確信犯的に女の裸を見ようとしていたことは確かだった。
小学校三年生くらいの頃。家族で旅行に行った先のホテルの大浴場でのことだ。
母が先に女湯に入った後、父はいますぐに母に伝えなくてはならないことがあった。私はそこで「(女湯に入って)母に伝えてくる」と伝える。
すると、父は私を止めた。
いま思うと、私はその頃にはすでに敏感だった。人の言動の裏が透けて見えた。
父が私を止めた理由はすぐに理解できた。
結局、2歳年下の弟がその役割を担うことになった。
何より悔しく悲しかったことは、このとき私自身に「女の裸が見たい」というやましい思いは何一つなかったことだ。
私は、正当に評価されないことを忌み嫌う。たとえば、やっていないことをやっていると言われることには耐えられない。やや矛盾するが、やったことをやっていないと言われるのには少し耐えられる。
ただ自分の中では、罪悪感が芽生える。
罪悪感があれば、私は何をしてもいいとさえ思っている節がある。
2016年1月30日
秋人間
「回想記」
大学に入学してすぐ、体育のような授業で20メートルシャトルランをやらされたわけですが、完全にサッカー部という格好で挑んだら、意外と女子ウケがよくてビックリしました。フットサルシューズから短パン、上着のピステまで、格好いいと褒められました。もしかすると、うちの大学には、女子校あがりが多いから珍しかったのかもしれないけれど……。
まだまだ私も調子に乗っていて、シャトルランも125回やり、最終的にはラグビー部の人と二人きりになってしまい、アイコンタクトで「俺たちピエロだな」ということで、止めることに。
拍手喝采だったのを覚えている。
その後、その授業には出なくなり、ほとんど休んだ挙句、ジネディーヌ・ジダンについての論文を書いて、なんとか単位をもらったということがありました。
その頃は、性交していない奴とシャトルラン125回できない人は、大学に入学すべきでないと本気で思っていた。
高校の時に、馬のように走らされた記憶がないやつは信じたくない。
そう思っていた。
しかし、そんなことができなくても、十分に気合いの入ったやつを私は見てきた。
そういう人たちを見ると、本当に感動する。どうしてそんなに気合いが入っているのか大変気になったものだ。
ーーあの頃の記憶。
雨の日に市営バスに乗り、重い鞄を持ち、今日の宿題はどのくらいあったか、などを一人で悶々としながら端っこの座席に座っていた。バスの中に、誰かがテイクアウトしたマクドナルドのポテトの匂いが充満してきた頃、私はちゃんと生きているのだか、ほとんど死んでいるのだかわからなくなった。なんの希望もなかった。
私には高校の頃まで自我など存在しなく、ただただ時に身を任せていたと思う。サッカーと勉強。それもそれなりに。何かこう、主体的に取り組んだというものはなかった。
浪人した時に初めて、自分にとっては「自由」というものを感じた。主体的に生きていると思った。本当は何もわかっていなかったけれど。
浪人時の私のひそかな夢は、たしか、「何にも拘束されず、鞄を持たずに白いスニーカーを履き、カフェで煙草を吸うこと」だった。
そう考えると私は大学デビュー、いや浪人デビューをした者なのかもしれない。髪の毛も坊主から一気に超ロングヘアーへと変わった。でもやっぱり、その時に馬鹿みたいに高い服を着て、イキがったからこそ、見えたこともあった。
今まで私が生きた世界とはまったく違っていた。
私は中学校の頃の夢であった「通訳者」を目指さなくなった。芸術に触れて生きていこう、と思った。その時に私ができることは、文章を書くことだった。それで作家を目指すことにした。とにかく、そう思ってからはmixiで毎日毎日、拙い文章を書いた。
言ってしまえば、私はいつだってモテたかった。それは特に、ゼックスがしたいとか、異性の身体に触りたいだとか、そういう欲求を叶えるためではなかった。
ただ、私の容姿や考え方、私自身を認めてもらいたかった、支持されたかった。それだけだった。でも、モテたいと思っていない人なんて、私は絶対に信じない。
2016.1.29.
秋人間
「父による村上春樹に関する考察」
どうやら、日本一売れる作家のことが多少なりとも気になっていたようだ。
2016年1月16日 秋人間
何番がお好き? vol.67
- 私はたくさんのサインを出している。でもそれを拾うか拾わないかはあなた次第。
- いつだって、絶対的な見方と相対的な見方を持っていなくては、遠近感がでないのよ。そうでなきゃ世界を正しくは見れないと私は信じている。絵画の世界では、遠近法を取り入れたことがとんでもない革命だったわけでしょう。それとは違うのかもだけど、私にとっては、絶対と相対を両方駆使して世界や私、あなたを見ることが何より大事なの。
- 現実的に正しいことは正しい。それだけ。正しいというのは、価値観ではなく、科学的に証明できる因果関係のこと。
- 私はね、平等は嫌いだけど、対等なことって大事だと思うの。だから、男と女に限らず、あなたとわたしの「対等」を探しましょうよ。
- 女にとって、この世界はどう足掻いても不利な世の中なんだよ。綺麗でも、頭が良くても、ブスでも、馬鹿でも、男の前ではいつだって圧倒的不利なんだよ。何を言っているかって? 女は男に物理的に勝てないということだよ。だって、私、リング上じゃない、距離がある場所なら吉田沙保里に勝てるもん。
- 私が女なら、あなたに犯されたいと思うけど、私が男なら、あなたを犯したいとは思わない。
- やっぱり私は差別主義者だと思うんだけど、東京の地下鉄の中で大きな声で関西弁をしゃべるのは禁止すべきだと思うの。勘違いしないで、私は関西弁が好きなのよ。でもその恥のなさにまったくもって「日本人」を感じないのよ。それはとても耳障りなものになる。
- 君じゃなきゃならないだなんて、嫌だ。誰だっていい、誰だっていいから、目の前にいる君でいい、じゃなきゃ嫌だ。
- 誰とでもできることを特別な人とすること以外に、その「Special」感を味わうことなんてできないのよ。なんで、あなた方はそうやって誰とでもできないことをまずやろうとするのよ。その時点で、負けなのよ。この世界はね、酸化しながらしか生きていけないのよ。
- わかるって言っているものって全然わかっていない。わかると言ったものより、わからないと言ったものの方が、実際はわかっていることに近づいている。
- 「世間体は、冠婚葬祭に、親戚に在る」
- 「映画を撮るのではなく、私が映画だ」
- 強姦魔である僕が、女性である私を犯したことを肯定する。
- どんなものだろうが、圧倒的なものって格好いいのよ。
- 能力や運ではなく、すべてはその人の性格・性質によるところが大きいな。
- 私の理想の会話というのはね、わかり合いすぎて、逆に訳がわからなくなることなんだ。だから結局またわかりあえないねっていうのを未来永劫にやることなんだ。それが私の会話だ。自分の中でも相手の中でも何周もして、二人でひたすらに行き違えばいい。それが永遠だ。
- 今会っていない、連絡取っていない人は私の中では死んでいるの。「今」というのは、ここ1ヶ月だろう。ただ最近会っているだけではダメなの。条件としては、私が本気を出せる相手、そして負けたくないと思う相手かしら。相手にとって私がそうかは全く関係ないし、知らない。
- 座右の銘 「自ら選択し、責任を取る」
- 私個人としては、「言動全てが大衆受けしてたまるか」という気持ちがあります。
- 大衆に迎合する「怖れ」は物心ついた時からある。
- 私を差別主義者に仕立て上げるのは、紛れもなくあなただ。だとしたら、それは私にもブーメランのように返ってくるのだろうか。返ってこなくとも、私は私でそのブーメランを、最強のブーメランを、どんな時も想定しなくてはならない。
- 噓なら、いらない。それだけ。
- 「自分らの方が凄い」と私はいつだって思っている。基本的には「自分の方が凄い」なのだけど、今回は珍しく団体戦だったので。でも、同時に「自分(ら)の方が凄い」ことを疑わなくてはならない。私にそう言える自信があるのは、その場で、対峙している相手方の思いをほぼ完璧に理解しているからだ。
- 何をやってもいい。ただその時には「その言動全てに死ぬまで責任を取る」という覚悟が必要なだけである。
- 次元が違うことを、どう咎められるのだろうか。
- ツッコミは、聴衆の思いを代弁するという行為だと思う。となると、ボケ以外に対してツッコむのであれば、そのボケでないものをボケにしなくては必ずならない。もしくは、本当にそれがボケだったとするならば、やはり代弁になるはずなんだ。そこ(笑い)にはね、個人の感情なんてものはないのよ。
- ボケに関して言えば、それが完全に個人の感情から発されたものでも全く問題ない。ただしボケる人間には、これが「ツッコまれなかったら終わる」という恐怖心を持っていなくてはならない。もちろんセオリーとしては、だ。私個人としては全員を引かせて、黙らせるボケやツッコミが最上級のものと考える。
- 「頑張らなくていい」という情報は、安心をくれたり、心の支えになったりする。しかし、それをそう感じていい人間というのは、「常に頑張らなきゃならない」と思っている人間だけなような気が私はする。最初から、何もかも「頑張らなくていい」と思っている人間なんて大嫌いだ。簡単な方へ逃げるな。
- どんなに偉い人だって、どんなに頭のいい人だって、言葉にした時点で「負け」なのよ。それを理解できなくては、人前でしゃべる権利なんてないのよ。
- 人に信頼されないってこんなに悲しいんだね。私は本気で全てに対応してるのに、私の思う、真っ当な評価もされずに、差別主義者だ、と断定されるのは悲しくて、夜も眠れない。私はズルいけど、優しく人思いだと思っている。そして何よりフェアだ。感情より論理を優先するのは、何より感情が強いからだ。
- なぜ、だ。全部逆の意味で捉えられている気がする。こっちはプラスに捉えて、むしろそっちをマイナスに捉えるべきだろう。私ね、セオリーって大事にしているの。セオリーを知っているのなら、どう破ったってあなたのアレンジなのね、と観念するわ、いや、恐らく感動すると思うの。
- 相手に対して“よかれと思って”やったこたを相手が無視したり、それで機嫌を悪くしたりしたら、なぜ即キレてしまうのだろうか。それは「逆ギレ」なのよ。私にはわからない。私は相手に誕生日プレゼントをプレゼントする時だって毎度毎度“本当すみません”と思っている。
- 血縁関係のある人間でない、一番信頼している人間に対して、私は最大級の気遣いをする。それが私とあなたの間柄だ(愛だからだ)。
- どれ程ふにゃふにゃで赤ちゃんみたくなっている時でさえも、私の頭はフル回転している。そうでなく、そんな状態になるだなんて馬鹿のすることなのよ。私はどこまでいっても、私でありたいの。馬鹿な私は19歳の時に捨てた。いつでも自分は「私」に見張られていて、四六時中監視されている。
- 「頭が悪い」と女を評価する時に、男は必ず「言う事を聞かない」の意味で使ってはならないと思う。例え相手が男だろうが女だろうが、老人だろうが子供だろうが、誰だってわかることを何の思考もせずに間違えた時にだけ、それを使わなくてはならない。それが私の公平性だ。
- 「すっぴんの方が可愛いね」と言われるのが本当に嫌な人に、「すっぴんの方が可愛いね」と言う為に、そしてそれを最高にいいものだと思わせる為に生きている。比喩です。
- なぜ自身の行動すべて間違いだと思わずに生きていられるのかわからない。私はそういう人を相手にすると、疲弊しきってしまう。
- 「確かにある側面においては、わたしは男に犯されてる。でもね、半面、わたしは私という女をわたしが犯してると感じてるの。だから、その行為について一般的に言われているような、女だけが『奪われる』という認識は間違いなのかもしれないわね。だって、わたしはいつだってわたしを奪ってるのよ」
- ガムと煙草は唾で繋がっている。
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何でもご依頼受けます。
@pourguoi 秋人間
何番がお好き? vol.66
- 格好悪いというのは、老人に優しくないことでも、女の子とのデートで食事代をワリカンにすることでもない。自分の行動に確固たる意志がないことだ。私は、道徳的に悪いとされることをその人がしていても、何らおかしいと思わない。ただ、それがその人自身によって「回収」されるかどうかは問う。
- ちなみに私は、大変ノーマルです。目隠しし、腕を上げたノーブラタンクトップの女を椅子の上で、ノーパンでM字開脚させることがちょっと好きな、くらいです。
- 快楽主義者でない人間を信じない。そして愛する人のために己に課したタブーをやぶれ。
- 例えば、私が生まれてこのかた浮気をしたことがないのは、自身の快楽に対して真っ当に向き合っているからだ。不運にも命を落とす人間すべてを救うことのできない私に唯できることは、自らの快楽を追い求めることだ。つまりね、浮気するよりも浮気しないでいる方が快楽を感じるのよ。自尊心の問題なのよ。
- 女を好きなように弄くり回せる男が、海を越えたヨーロッパや中東で不運にも命を落とす人間について、親身になって考えられますか。考えられるとしたら、とんでもない変態だと思う。サイコパスだと思う。私は、自分で考えられる限り、サイコパスではない。物凄い普通の人なんだ。
- 世界情勢なんて知らないわよ。だって私は、私の半径2メートルくらいまでしか手出しできないんですもの。そう思わない?
- 君じゃなきゃならないだなんて、嫌だね。誰だっていい、誰だっていいから、目の前にいる君でいい、じゃなきゃ嫌だ。
- 刺激が欲しいか、「安定」が欲しいか。私が言いたいのは、刺激しか「安定」にならないということなの。「安定」ってまやかしなのよ。だって死んでいるということでしょう。私たちはね、毎秒変化している、それはある意味では刺激で、だから続けていく(生きていく)には、刺激(変化)しかないのよ。
- 自分が一番偉いという考え方が一番醜い。
- 自分でリストカットするところを想像すると、怖くて、気持ち悪くてできない人が多数だと思う。でもそれはある意味狂っている状態で、私たちは生きているんだから、多分そのくらいのことを他で平気でやっているのよ。だから精神病だからとかじゃなくてね、本気で生きているからできるってこともあると思うの。
- 敏感と純粋って反対言葉みたいね。私はそれを両方欲している。ほら、矛盾こそ真理という考え方もあるでしょう。
- 一般的に正しいことって本当にどうでも良くて、私にとっていつだって世界は「私とあなた」で構成されている。抽象概念なんてものはその場には持ち込めない。だから、「私とあなた」の間で通じる言葉を作りましょう。
- みんな信じないかもしれないけれど、運命の人って一人じゃないのよ。というか、ここまで言っていいものかわからないけれども、あなたにとっての他者は全てが運命の人なのよ。全てをもっと大事にしなさい。
- 恋人が異性と会うのは嫌だ。これは感情だ。そして甘えだ。権威・専制主義だ。感情の対となるものが理性なら、この時の理性とは、ガンガンに異性と会って、他の人と比べて私のことが本当にいいかどうか毎瞬間考えてもらって、それでもなお私がよくてこちらに戻ってくるなら、幸いだと考えることだ。
- その人の大好きなものが私の大嫌いなものだった場合、私は目の前でそれを批判する。その時に、まるで人格否定の様に捉える人って私、無理だわ。
- 恋人というのは、並々に注いだグラスを自分の魂だとして、それをその人に預けても構わないと思える人なんです。勿論それを零さない様に大事に持っていてもらっても構わないし、不注意だろうが意図的だろうが、それをひっくり返して零してしまっても-例えばそれで私の魂が消滅しても-構わないようなものなんです。
- わざとなの知ってる。でも動けない。それは私が私を殺すことになる。私は私でなくては必ずならない。だって、あなたも私が私でなくては意味がないでしょう。これに対する反論も全部承知してる。全部だ、全部。
- どの角度から見ても間違っていてもいいの、唯私を納得させて。
- いいものって説明できない。でもだから私たちは、それを説明しようと努力している。神の領域だとは思う。でもそこは、挑戦すべき価値のある場所なのよ。
- だから、紗栄子とか藤井リナが最強なんじゃないの?
- 表で完全に齟齬が生じ、どんな無茶苦茶で残酷なすれ違いをしても、裏で、心で、「おんなじ」ものをちゃんと通い合わせられるのなら、それはそれで大成功なのよ。あなたの「青」が私の「赤」かもしれないじゃない。そしてあなたは少し常軌を逸していて、青は止まれと思っていて、私は従来通り、赤は止まれと思っていたら、ちゃんと合致するのよ。
- 一歩動くと責任がつきまとって、私が動くたびにその借金が増える。そのうちね、それで死んじゃうと思うの。私だって自己破産したいわよ、本当は。だからね、私もこうしてやっと生きている。
- もう冬なの? 秋の命は短い、そしてその境目がないことで、そいつをよりくっきりとさせる。
- 好き嫌いや価値観が合うのではなく、その好き嫌いや価値観を導くまでの構造がしっかりと体系化されているか否かの方が大切。「本当」の会話をする上では、好き嫌いや価値観が異なっても何ら問題ない。それを知らずに「顔でなく内面」と言い、その内面も好き嫌いや価値観が合うというものを言うのでしょう。
- 価値観が合うというものを恋愛観において絶対正義にするということはだよ、要するにそういう人たちが一番否定する外見重視になるということに、なぜ気付かない。
- 私たち大人が、大人になることがとんでもなくつまらないものだと思っていたり、(子供に)教えたりしてはならないと思うのよね。私は毎秒進む毎にワクワクしているわよ。これは本当よ。どんな苦しい未来が待っているのか、と期待するのよ。
- むかーしむかし、五つ上くらいの女に「社会人を五年くらいやったらこう(いう考えに)なるのよ」と言われた。私が「本当につまらない、美しくない」と言った後だった。あれから何年か経ち、私は今こうして社会人をやっている。でもそんなつまらないことを考えたり言ったりはしていないと思う、ザマァ。
- 私の美学というのは、つまるところ宗教に相通ずる部分が相当あるのかもしれない。
- 例えば、私が言っているのはね、どうしてもヤりたい女がいるとして、その女とヤる為にはね、死ぬ思いで頑張って誘って、それからラブホテルに入りシャワーを浴びた後、まさに「今から」という時に、その女に銃で撃ち殺されなくてはならないのよ。
- 何かを差し出さなくては本当に欲しいものなんて絶対に手に入らない。
- 絶望とは、ないことではなく、あることがないことである。
- 人間は外見である。絶世の美男美女以外に生きている価値なんてない。少なくとも他者に「私」を提供しなければ、生きられない人間にとっては。
- 私は本当に選ばれたのだろうか。それとも本当はたまたまそこに居合わせただけなのだろうか。
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何でもご依頼受けます。
@pourguoi 秋人間
SNSのプロフィール写真について
日本人があれをやるということは、結局のところ、ハロウィンパーティーにしかならないのよね。
なぜ、フランスだけなのか。
フランスでの自爆テロについては哀しみ、ロシアの旅客機が墜落したことには哀しまないのか。
もうその時点で「平等」ではない。そんな人たちが「自由・平等・博愛」(トリコロール)の旗を振るのか。
私は何も考えずにプロフィール写真を変えている人が嫌なんです。本質を見極めようと努力しないお祭り人間が嫌いなんです。
SNS上だろうが、どこであっても他人様が見ている場所で「表現」するということには、責任が伴うんです。
はっきりと自分はフランス贔屓(かぶれ)なんです、と言って欲しい。
それならば、なんら矛盾しない。
そうでないのなら、とんでもない差別主義者だ。
トリコロールは、「自由・平等・博愛」を表す。
自由を掲げるならね、自爆テロも自由の一つでしょう。賞賛しなくとも認めなくてはならないわよね。
いつだって自分が殺される可能性がある社会こそが、あなたにとって自由な社会なのよ。
プロフィール写真をトリコロールにして、「反IS」を唱えるなら、結局、「やられたらやり返す」ということを唱えることになるわよね。
それこそが、あなた方の毛嫌いし、馬鹿にしている「反民主主義」そのものではないですか。
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