何番がお好き? vol.59
- 自分が嫌いな人って、一つ視点を変えると、自分そのものだったりするから恐ろしいわよね。
- 私たちはそれをお花と呼んでいるけれどお花の本質ってどこにあるのかしら。“花”は結果でしかない。ならば種なのか、茎、葉、根なのか。あなたは薔薇の花や棘をむしり取った状態の薔薇を、ちゃんと「薔薇」として愛せますか。
- 人っ子ひとりいない夜の街を歩いていると、私は突然背の高い何かに前を遮られた。それは百合の花だった。百合って、ボルゾイのように美しい。白くて、鼻が長くて、独特の匂いがする。お見舞いで病院に持って行ってはいけない花らしいけど、そんなの、むしろ百合側からNGよね。あんなとこに誰が行くもんですか。
- アーティストの作品を批評する場合、自分も何かしらの作品を持っていなくてはならないと私は思っていて、ボコボコに批判される対象を持っていないというのは、なんとなく成り立たないと思えるのよね。私は批評する側と批評される側がイーヴンであって欲しいの。プレイヤーでない、批判対象を持たない人間に発言権はないのよ。
- この前、友人に一緒にマリファナをやりましょう、と言われたのね。でもね、素面で酔えない奴が酒を飲むなんて馬鹿げている様に、素面でトべない奴がトんでいるのも馬鹿げているのよ、私からするとね。お母さんに言えないようなことはやってはダメなのよ。
- 真にピュアであること、私が望むのはそういうものだ。何も知らないことによって生まれるピュアを私は信じない。盲目でこそ、ピュアが成り立つだなんて絶対に信じない。真にピュアな人は、全てを知っているにもかかわらず、初めて経験するかのように喜び、悲しみ、怒り、楽しめる人だ。
- 東京メトロ丸ノ内線で関西弁で喋る女性に関西弁が出る度にガンを飛ばしています、かなり厳し目に。ここは東京だ。私が大阪で受けた仕打ちを倍返しにしてやる、東京なめんな、べらんめえ。あのね、関西弁を喋ることが即悪ではない、電車内で大声で喋ることが問題なのだ。関西弁は鼻につくという認識を持つがいい。
- 例えばね、私の好きな人というのはね、観念論なのだけれども、私が待ちに待った超高級万年筆が届いたとするじゃない? それをね、なんの許可もなく先に勝手に使っていたとしても、挙句その万年筆をぶっ壊したとしても全然構わないと思える人なの。ぶっ壊れる過程を闇雲に信じられるのよ。
- いい小説というのは、どちらかだ。私に小説を書かせようとするか、無気力にさせて死ねと言ってくるものかだ。
- 私はひねくれているのか、黒人が白人に勝つ瞬間を夢見ていない。私が夢見ているのは、黒人街に育つ白人が黒人を差別する白人を打ち負かす瞬間だ。
- 単に本物ではなく、偽物が本物になる瞬間を私は“本物”としている。
- 小説はフィクションだから読まないという人間もいるそうだが、そういう人とは恐らく相容れない。ある物理学者も言ったが、私も想像できるすべてのものは現実に起こり得ると信じている。それどころか、そういう考え方が小さい頃からカラダに染み込んでいる。言葉にしたら陳腐だけど、私は“永遠”や“本物”が欲しいの。
- Yappariwatashishousetsukaninaru.
- 表現者の条件というと偉そうだが、表現者は寂しい存在でいなくてはならないと私は思う。それは周りと比べてということではなく、自分よがりの判断で一向に構わないのだが、私こそが世界で一番寂しい、否、誰と比べなくとも私は絶対的に寂しい、勘違いだとしてもそう思っている存在でなくてはならない。
- テーマは真逆の(矛盾する、邪魔になる)ものが並行して生きること。
- 私の美とは、煩わしくて面倒くさくて危険なものを側に置いておくという美のこと。
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@pourguoi 秋人間