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prêt-à-porter

私が関わった人間は全て私の作品である

十年

2014.09.13.
私がこうして書くものを多くの人間が見るところに晒さなくなったのは何よりこのままでは埒が明かないと思ったからである。私はここ十年戦ってきたつもりである、挑んできたつもりである。しかし私自身一体全体何と戦ってきたのか正直を申してわからない。私は私のやり方をひたすらに他人に押し付けて勝負をしてきただけなのではないのだろうか。今になってわかることだが、いくら私がその様な方法をとっても私自身の生活は現状楽にならなかった。十年前と何一つ変わらない。私はそれを後悔しているわけではない。しかしこのままでは何も掴めずにただのたうちまわるだけの人生になる様な危機感を今書いていても覚える。埒が明かないというのは、先ず私には会って話したい人たちがいて、それは美輪明宏であり、村上龍であり、金城一紀であり、太田光である。私が彼らと会う時、私は彼らと対等に話し合いたいと考えている。それがせめてもの誠意だろうと思う。ただファンとして会いたいとは思わないのだ。私は彼らをぎゃふんと言わせたいし、彼らの作品などとの間接的なコミュニケーションからではなく、対面してぎゃふんと言わされたいのである。しかしこのままではそれがかなわないと思える。それで私は人に無闇矢鱈と私の書く考え、大袈裟に言えば思想や作品、物語を晒さない方がいいのではないかと思うのである。それによって何かがすり減ってしまう気がするからだ。それを安く売り過ぎてはならないし、またそうして人に見てもらう程の価値もないと判断したのだ。もっともっと内省が必要なのではないかと思うのだ。要するに今日がその分岐点になるのである。
また例の如くYouTube太田光の動画を漁りに漁った。そして気付いた。私はこのレベルにはない。経験も、また知識の絶対量も。私には唯一感受性だけは私と会いたい人たちにも劣らないと考えていたが、このままでは私の感受性も段々と劣化して行くに違いないという思いに駆られ今回この転機を得た。
私は一体何で在るのか、という思春期特有の自我の目覚めとも似た、漠然とした問いに私は十年かかっても答えられないのである。それが悔しくて悔しくて堪らない。私が何で在るのかという問いも十年前の自分になら今の私は十年前の私が納得できる様な答えを用意できる。しかし今の私の満足する様なものを今の私では答えられない。このままではいつか死に追いつかれてしまう。私は成したい。それは有名になるだとか小説家になるだとかそういったものではなく、私は私の納得するものを作りたい。私は本当に何が一番美しいかを知りたくて、また世界で一番美しいものを作る為に生きている。それを成し遂げる為には矢張り不断の努力以外にはない。そう判断した。私がこれまで書いてきたものは本当に何の裏打ちもない、小学生のお絵描きや夏休みの日記、しかも気の向いた時にしかやらない、そういう大変くだらないものなのだ。それは薄々自分でも気付いていた。それらを読んでくれた方がお話や語りを気に入ってくれたり、私のファンだと言ってくれたりしたことは本当に私にとって文字通り有難く、大変恐縮してしまう事態である。有難い。それには感謝をしているし、責任も感じている。ただこれだけは言いたい。私は私のエネルギーや感受性を信じている。上でも書いたが、それを今までの様に安く売り渡すのは勿体無いし、またそれを高く見積もり人様にタダとはいえ売りつける程の価値のないものだとも思うのだ。だがしかし私は諦めない。十年前からやっていた精神は私が私でちゃんと引き継ぐ。と同時にちゃんと勉強をして、人間らしく、また芸術家らしく、本気で生きていこうと思う。

大切なことは、命と(自分や他者に対して)正直であることである。そしてそれを他者に強制しないことである。責任は全て自分にあり、またよく作用したことは全てが他者や神様のお陰なのである。そう考えている。
念の為。私は無神論者である。

私は今後も超個人主義を貫く。
それは世間の言う個人主義とは異なる。
私は私で自分の人生に責任を持つのである。
私はこれからも私の好きなものや愛するものを信じる。

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