prêt-à-porter

私が関わった人間は全て私の作品である

「公開処刑2014」

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仮に陰口を言うのであればその人間と面と向かった時にはその文句をその場で言えなくてならない。


公開処刑2014』


主体と客体の入れ替え。実験として普段人を裁いている(いじめる)側の人間の真剣な会話を裁かれる(いじめられる)側の人間に公開することによりその主体と客体の入れ替えを狙う。
但しその場合において裁く側の人間が本音で話し合いさえすればその主体と客体は対等になる。そしてそれは劇になる。演者が演じ観客がそれを観る。見る、見られるという関係性。

サッカーもテニスもフィギュアスケートも劇も、会場型鑑賞芸術というものはコロッセオの歴史から始まる。
奴隷が戦うのを貴族、王族が見る。
今回、その関係性を打破したい。
要は、奴隷のすることの凄さによって貴族、王族が吐き気を催し会場を出て行って、またはあまりの感動によって自分らがやっていることを恥ずかしいと感じてくれたら目的は達成である。

公開処刑という明らかに強者と弱者が現れる場で普段強者である私が敢えて弱者の立場に立ちその状態を自ら強者に晒すことによる革命。
いつの時代も弱者には言い分があり、強者にはそこまでの言い分はない。
今回、その関係性をイーブンにまで持っていくことを私の革命とする。


私は私の快楽の為に生きている。
でも苦痛の伴わない快楽を快楽だとは思えない。


二者間においては勝敗というものが必ずつく。
ただその勝敗と人間性の優劣に相関性はない。
私が最も嫌うことは私が負けることではなくお互いにフェアな状態で戦えないことだ。
その環境や条件を争いをする二人で公平になるようにセッティングできないところに悪が在る。
私はスポーツマンだからただ真っ向から目の前の人間と対峙する。
それを誰が見ていようと関係ない。
どこにいてもいつでも私は私でありたい。
私という人間を見て欲しい。


まさに2014年W杯 準決勝でのドイツ対ブラジルこそが私の考える公開処刑である。
ブラジルホームでブラジルを7-1で下す。
一見するとドイツの公開処刑なはずだ。
それを逆転させるところに私は希望を見出すんだ。


然し、これボツ企画となりました。
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