prêt-à-porter

私が関わった人間は全て私の作品である

「私の信義則」

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私の行動規範があなたの感情に寄り添わないことで、私に心が無いのだと判断して欲しくない。私というあなたにとっての他者をただひたすらに信じなくては他人同士の信頼関係なんてものは成り立たないのだから。例えその時あなたがどんなに感情に寄り添って欲しいと考えていても立場的にそれができないこともある。それすらも飛び越えてきて欲しいのなら兎に角律儀に思考を止めず今自分と相手がどこにいるのか理解しようと努めなくてはならない。その上でやっと文句が言えるか言えないかのギリギリのところに立てる。
 
 
兎に角あなたの哲学を、ルールを、行動規範を、ポリシーを貫いてくれないとこちらとしては何を信じていいのかわからない。私たちは互いに他者なんだ。私たちは非連続な存在だ。一貫をしてくれ。それだけだ、私の求めるものは。その延長線上に人を愛するというものがある。
 
またはあなたも私の様に一貫性のないという一貫性を主張するのならばそれに甘んじよう。然しその主張を遂行するのはとても難しい。それはあなたにとってはただひたすらに感情を優先するということだからだ。それは人間ではない。
 
 
先ず人間であることが前提なの。
 
 
仮に私を見捨てることがあなたの哲学に則っているのであれば私はあなたを愛し続けることだろう。あなたが私を見捨てることに何の躊躇をしなくとも。否、躊躇などして欲しくない。
何故ならあなたがあなたの哲学を貫くことの延長線上にあなたが私を愛すという普遍性が存在するからだ。私は心からあなたを信じている。
 
 
感情は理論の果てに在る.
 
 
恐らくあなたはまだ強烈な質問というものに出合ったことがないのよ。強烈というのはどうしたって即答以外認めない様な質問のことで質問自体が解答を強烈に欲している様よ。しかも中途半端な答えを出したものならすぐ何故?と矛盾や不完全さをつつかれてしまうような。そうして強烈な質問を目の当たりにすると思考停止は悪だと気付かされる。
 
 
私の手を離さないで.
メタファーよ(約束よ).
 
 
私が相変わらず心に決めて信じているものは私が大嫌いで吐き気がして気持ちの悪く近づき難く触れるのも触られるのも見るのも見られるのも憚られるほど嫌なものを、本気で愛せると私が私で証明できるということだ。
 
 
私があなたに夢中であなたのことしか考えられないからこそ、あなたの気持ちに寄り添うことは簡単にできる。そこを経て私は長期的プランで、私の正義を示している。込み込みでコミュニケーションをとっている。そこまで察してくれないことには私の本質は見えてこない。
 
 
私は自分にとって大事なものを一度敢えて無視して、客観性を持ってこの場面においての正しい選択をしてきた。それが過ちなのならば私のやること、やってきたこと全て間違えている。
 
 
私が女に求めるものは全てだ。私にとっては私の女が私の世界の全てで、フェミニストが望むように一端の人間の様に対等に接する。でもそれに慣れていない女は矢張り見下される様な対応しかできないんだ。
私が女ならそうはなりたくないし、そう接してもらいたくない。男よりも男である女でないと人間として意味がない。あるいはもう完全完璧な世間一般の女を演じる他、道はない。
 
 
私とあなたの世界と外の世界は全くの別物で、だからこそ二人の世界において外の世界でも通じる、あるいはその防御方法を予行演習する必要がある。今できないなら外でできない。
それは何を意味するかと言うと、外の世界に二人で出た時私だけでなく私たちの関係者みんなを苦しませる結果を生むんだ。それは外の世界での二人の死を意味する。
 
 
私から見える景色とあなたのそれは違う。互いに向き合っているとして、あなたは突然私に向かって死んで.と言う。それはもしかしたら私の後方から(あなたにしか見えない位置から)あなたに弓矢が飛んできていてニ秒後に死ぬことがわかり私と一緒に死にたいという願いからかもしれない。聞き返している暇はない。私はすぐ様死ぬ。だってあなたのことを信じているから。
 
 
あなたが今死ねと言えば私はそのままそれを信じる。だってあなたが場の状況を読んでそう言うのならそれが私にとっては正解なのよ。仮に私が今死ねと言えばあなたは間髪入れずに死ぬ。あなたは私がそう判断するなら間違いないと思う。そうやって互いが盲目的に互いを信じる。私の求める愛とはこんなものだ。
それで死んだことが世間的に見て失敗だとしても私たちの大切なものは崩れない。寧ろそれは私たちの勝利であり、私たちにとっては大成功である。
 
 
サッカーでもこちらから見える景色を信じてこちらの支持に従って味方が走ってくれることがある。するとやりたいことができる。例えばそれによりスペースが生まれたりする。そうやって自分には見えないものを見ている人が、走れと言うのなら盲目的にそれを信じて走る。それに従った味方にこちらは頭が上がらないし、責任を感じる。そして味方の生んだスペースを有効的に使わせて頂く。その逆もまた然りでこちらは味方の指示を盲目的に信じて走ることもある。それでチャンスにならなくとも、結果的にそれが正しい指示でなかったとしても互いに何の後悔もしない。何故なら任務の失敗よりもお互いの信頼関係が崩れる方が致命的だからだ。
 
 
私は私を全面的に信じてもらえなくても相手を全面的に信じていることを示す。でもそれを毎度毎度ひっくり返されたらやっぱりいくら私と言えど疑い出すわ。私だってピエロになりたくない。あなたの前ではピエロになることをかって出ていたわけだけど。何事にも限度はある。あるいは誰かの言うように、完璧でない相手を責めることは単に相手の落ち度ではなく私の相手への思いが足りていないということなのかもしれない。
 
 
エゴイスティックに誰かを愛してるってことも有り得ると思うんだ。
 
 
どんな愛だと言われるものも絶対に自分の利益の為にある。それが愛の正体で、でもその評価を相手に求めたり、自分の行為を無理に正当化するような発言をしたり、相手にも同じことを過度に求めたりした時にそれは偽物の愛になる。本物の愛は必ずエゴイスティックなものだ。でもそれは悪いことではない。
 
 
私が本気であればあるほど相手は疑われてしまう。もうその時には私はこの世にいないようなものなんだ。真剣で本気であることが例え真逆の意味に取られるような発言をしても、ちゃんと信じられないのなら私は生きている気がしない、意味がない。あなたが私の存在理由であるというファムファタールを私は信じている。
 
 
私は確かに独り善がりであると認知している。でも私がやることやどんな発言もあなたに対する愛から成るものだと信じられていないと感じられるとやっぱりピエロになってしまう。確かに信じてもらえないのは私の力不足だ。でも同時にあなたの信じる力不足でもある。
 
 
散々人を疑ってきた。それは騙されたくないからだ。でもあなたになら騙されてもいいと思える相手、それは私が愛してる人ということになる。精神も身体も全てくれてやる。私はただ従うだけ、奴隷になりたい。
 
 
相手のことを疑うのは、相手のことを信じていないのではなく自分のことを疑っていないんだ。そこに弱さが出てくる。私が求めているものは相手をただ信じて、そこに自分はいなくてもいいという幾らか受け身的な、ある種宗教的なものだ。私はそれを相手に求める。
私はあなたをただ信じ、愛す。
 
 
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