prêt-à-porter

私が関わった人間は全て私の作品である

私の叫び 85

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  1. 学校では教わって来なかったかもしれないけれど、たとえそれがどんなに拙くとも、私たちは「自分がどうしたいのか」を目の前の相手に伝えなくてはならない。それは仕事に限らず、この世界で生きる上でとっても大事なことだ。既に価値をつけられたものにすがりついて、それを盾に進むのではなく、「自分にとって価値のあること」「自分のやりたいこと」を伝えなきゃならない。私たちの多くは「自分がどうしたいか」を考えたり伝えたりしないで生きてきた。どんなに一般的にバカみたいなことだとしても、自分が真剣に考えたり取り組んだりしていることは、十分に価値のあることなんだ。そういうものにもっと真剣に取り組めばいい。真剣たれ。
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  3. 自分の最高速度を知ることだよ。そうしたら、もっと速くなれる。
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  5. ここ一年ずっと意識していることは、「この場で一番の弱者は誰か」と「自らの加害者性に気づく」です。
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  7. みんなそこそこ気をつけていたとはいえ、今まで出ている本の中には、セクハラやパワハラまがいの記述が多い。今では、完全にアウトなものもある。もちろん、一番は書き手の責任ということになるのだが、編集や校正も間に入っているのだから、みんなの責任だ。誰かをいたずらに傷つけることがないように本を作りたい。
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  9. そもそも書くことや話すことが、誰かや何かを「殺す」行為であることは肝に銘じなくてはならない。それでも伝えたいことがあるか。それを超えてくるものを見つけなくてはならない。
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  11. 手を広げれば、横に道があることに気づく。
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  13. 多くは自分の人生の主人公であることにかこつけて、他人の物語でも主人公ヅラをしている。私はそれが我慢ならない。当たり前のことかもしれないが、一歩外に出たら、いろんな人の物語が織り成す社会があるのだから、自分だけの世界じゃない。それなのに、多くはまるですべての物語で自分が主人公のような振る舞いをする。
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  15. 「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。」(マタイ6:1-4 3)
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  17. 私はね、それが動物的には誤った反応だとしても死ぬ直前まで判断したくない、死ぬまで考え尽くしたいんだよ。究極、答えなんて全然出なくてもいいの。ただ諦めない、その根性だけは認められたい。地獄行きの門の前で閻魔様に「お前は他と違って死ぬ本当の直前まで考え尽くしたな」って言われたい。
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  19. 17-18チャンピオンズリーグ決勝で一番驚いたのは、ラモス? の逆サイドへのパスを、このままでは取られると察して、中央でカットして自分のものにしたモドリッチのプレー。
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  21. サッカーにおいて相手を思いきり倒せるのは、審判が見ているから。要はルールがあるからだ。そこに仁義なんかなくていい。ただ線だけ引いてくれれば、どんな激しいのも悪質で相手を壊すようなタックルもできる。だから例えば、そういうことをやられたとしても屁でもないわけだ。全ては、そこにルールがあるから。
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  23. 「あらゆる問題が脊髄反射で解ければ、人間に脳がある必要はない」のか。
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  25. 人と人が会うってかなり奇跡的なことなんだな、と思う。
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  27. 「平和的関係、それは互いを正面から見つめ合い人間の顔を見出し合う人々、すなわちあいまいな衝動に身をゆだねる代わりに律法を承認する人々の間に成立する。」
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  29. 人に何かを教える時。自分ができることを棚に上げてはならない。やっぱり、その人にはその人なりの方法があるはずだからだ。それは自分のとは全く違うものかもしれない。一番大事なことは、その人が本当にそれをやりたいかどうか。もし自分と同じ方向を向いていると思えたなら、自分の経験からアドバイスをする。しかし、その助言はあくまで選択肢を提示するだけ。結局、選んでやるのは自分だから。あとは褒めてあげること。とにかく、褒めてあげること。どんな些細なことも褒める。無理はしない方がいい。でも、続けられるならやった方がいい。まずは好き勝手やらせる。ルールを破ったとしても、自由にやらせる。それがやりたいことなら、いいじゃないか。変なモラルや規則に縛られるべきじゃない。十分にやらせても、まだやりたいことがあるのなら、そこでやっと指導者が登場する。「君は何がしたいか」「それなら、こうしたらどうか」大人になって、私が凄いなぁ、いいなぁと思う人は、大体が「君は、どうしたいの?」と聞いてくれる。なんだか、それは魔法の言葉みたいで、軽く「自己責任論」っぽいんだけど、でもちょっと違くて、確かにそれはとても厳しいんだけど、相手の自由を重んじているんだ。さぁ、君は、どうしたい?(中学生にサッカーを教えた時に考えたこと)
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  31. 私が初めて死者と会ったのは、小学校6年生の時だった。父方の祖父が死んだのだ。私にとって、その後に会う死者は、そのまんま二の次だった。祖父は、ベッドで寝ていた。私はなぜか反射的におでこに手をあてた。衝撃だった。スーパーのマグロのように冷たかったからだ。明らかに死んでいることがわかった。私は階段を降り、一人で泣いた。そこに母が駆けつけ、「おじいちゃんはね、頑張ったんだよ」と言った。私は何も言わなかったが、心の中では〈その答えは、いま私が欲しているものではない。一人にしてほしい〉と思った。私からすると、それ以降の死者や死は、死者や死ではなくなった。