私の叫び 76
- 自分はまだまだ優しくない。もっともっと優しくなれる。たとえば、サイヤ人の ––––力があり過ぎてコップを持つと割ってしまう ––––アレ。そう、サイヤ人は優しくない。強さとは優しさ。“本当に”ドアを静かにゆっくりと開けたり閉めたりすることができる人は、そのドアを木っ端微塵にぶっ壊せる。そういう優しさ。
- 「君のその選択が仮に『正解』でなかったら、私たちはもう生きている意味なんてない」
- 聞かなくてもわかるから「答え」なのよ。
- みんな話す時には伝えたいことを言語化するわけだけど、そのアウトプットするまでの仕組みなんて相手にはわかりっこない。またそれが伝わる時には、相手は自分の言葉に書き換えて理解するんだ。だから、どうしたって言葉なんかでは「正確」には伝わらないんだ。だけれども、人間はどうやったって言葉で伝えるしかないのよ。ただ、その時にその言葉だけを追わない人となら「話」ができるのかもしれない。
- 言葉はとても便利だけど、実際は言葉を使うというのは、なんとも遠回しなことをしているわけだよ。原始時代には、目が合うだけで何もかもわかってしまうような「会話」もあったはずだ。言葉は一対一の意思疎通のためには、ないのでは。あるいは初めて会った人とのコミュニケーションのためにあるのか。
- 私たちの運命の人は、本当は生きている人すべてなのよ。誰にでも通じるルールがあるとして、それをちゃんと守れる人が運命の相手だとしたら、やっぱり誰もが運命の相手だ。ただ、そのルールを知る者がこの世に二人しかいない。そう、あなたが運命の人よ。特別でない(普通の)ことを「特別」にするの。
- 一対一の人間関係において、極限まで理性を働かせられない人を私は許せないんだと思う。そこで諦めちゃうのであれば、たぶんこの先どんな困難があっても一緒に乗り越えていけない気がしてしまうからだろう。なんで、相手のことを簡単に信じられちゃうんだろう。ここまででいいか、と思えるんだろう。
- 悲しみを拾ってほしい人間は、相手の悲しみも拾ってあげられなくてはならない。常に何がどうしてどうやって悲しいのかをちゃんと知ろうとしないのがわからない。自分が生きているだけで周りの人間なんてワンスペース邪魔が増えたと思っているんだ。なぜそんなに我が物顔なのか。生きていてすみません。
- 自分の言動なんて相手にとってすべて迷惑だと思えないなら、外に出ちゃダメなんだよ。そうやって毎瞬間、気づいていけば、そのうち誰をも傷つけない人間になれると私は思っている。だから私が人を傷つける時には、完全に悪意があるということになる。それこそが、フェアな状態だろう。
- なんで、みんな筋を通すことがわからないんだろう。それがわからない。私があなたの手を離すからといって、私に心がないみたいな言い方はやめて。確かに、それも仕方ない。ある意味、よくわかる。でも、それは本当に私に興味のない人がやることなのよ。私にはほんのこれっぽっちも愛がないように見えるのかな。かなしい。
- 大勢が歩いているところで突然止まると、当たり前に後ろから人がぶつかってくると思うんです。でもわりに多くの人がぶつかられて怒っているんです。私にはその神経がわかりません。たとえば、一瞬ムカッとするのはわかります。でもそれを態度に出してしまう、声を荒らげてしまうのは、やっぱりかりません。
- なぜ自分の被害者性よりも加害者性を意識しないのか。なぜあなたが中心なのか。あなたが神なのか。一切わからない。私は私が大好きだし、世界一大事だけど、それでもこの社会や世界にたくさんの人と一緒に生きていると認識している。自分が大事だからこそ相手のことを考えるし、フェアでないのは嫌なの。
- 価値というのは、審美眼を持ち評価する者が存在しなければ、一生眠ったままである。
- 誰でも自分が考えることすべてを言語化したら、小説家になれると思う。
- 不条理なこと、不当なことに対しては断固闘うつもりだ。絶対にそういうものに対して屈したくない。先聞いた話だが、友人が困っていたので、知り合いの弁護士さんにご相談した。ただそういう状況になると、本人は不安だったりが先行しちゃって臆病になるものなのかな。私にはわからない。全員ぶっ殺す気でいる。
- あなたになら騙されても裏切られても一向に構わない、と思える相手としか信頼関係は築けない。
- 私のよさは、正直なところ。悪かったら謝ることをしなくなったら、私は死ぬ。
- あなたがつらい時、私がそばにいてあげる。いや、それは本当の愛ではない。あなたがつらい時、あなたがやりたいようにすることを願う。そうだ、それだ。でもズルい私は、あなたがやりたいようにやったとしても、私のそばにいることを願っている。
- ものを知らないのは別に仕方ないと思う。そういうのをバカにしてもしようがない。だって、あなたは私より何か他のことをよく知っているだろうし、反対にわたしはあなたより何かをよく知っているだろう。ただ適切な手順を踏まずに相手に攻撃するのだけは罪だと思うの。
- その人のことが好きでも表現方法が嫌いだと成り立たない気がする。表現方法なんてものは、その人そのものだよ。理性と愛と感情と自我。
- 私をよくするのも悪くするのも、目の前の相手次第。
- 恋人に対しては容赦なく甘えるつもりだが、基本的に本当に辛くて悲しくて死にそうな時には、話したい人に話しかけない。私にはそういう正義がある。
- 何も迷惑かけられていない相手に「デブ」と罵るのはルール違反。仮にその人が本当にデブだとしても、だ。そんなこと関係ないじゃん。たとえば、その人が何か悪意を持って仕掛けてきた時に、やっと「デブ」と罵ることが許されると思っている。
- 自分の名前を人前で言うのが怖くて怖くてたまらないだなんて経験、あなたはしていないでしょう?
- 各家庭にピュアな大人がいないから子供はどんどん世間体を気にし、目に見えるものだけを価値あるものだと思うようになる。私は絶対にそうやって生きたくない。たとえば、こういう考えのおかげで仕事がなくなり乞食になったとしても、私は一切後悔しない。私にとって、心や感受性を失くすほうがずっと恐ろしい。
- 世間一般からしたら、いい歳してこんなこと言っているだなんて本当にガキだと思う。重々承知している。でもだったら、みんな何のために家族がいて友達がいるの? 私にとっては、心が本当に通い合う瞬間があればいつだって死ねるのよ。そうやって今を生きていきたい。
- 映画監督のジョン・カサヴェテスじゃないけど、みんな20歳前後で何かを失くしてしまう。ほとんどの大人がそうだ。私はそういう人とあんまり関わりたくない。同時に相手が少しでも求めるのであれば、本当はお節介で傲慢だけど、そういう気持ちを思い起こさせてあげたいと思ってしまう。みんなにも、カサヴェテスの映画を観てほしい。
- 今の私には家に帰っても両親と話すか、企画案を練るか、本を読むかくらいの選択肢しかない。それ以外やりたくない。「愛」がない人ってやっぱり無理。みんな愛のある人との接し方を知らない。とんでもなく低俗な奴らばっかりだ。私が中二病だと言うのなら、それでもいい。でも私と接したら私の愛に気付くはずだ。
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- 適切な手順を踏む相手になら、私は絶対に私の愛を感じさせることができると信じている。
- 私が求めている人はね、本当に寂しくて寂しくてどうしようもないけど、なんとか前を向いて生きようと、そしてこの社会を、世界をただそうとしている人なの。おそらく、その人も私みたいなやつを求めている、と無根拠な自信を隠しポケットにしまって生きている。
- 最近出した私の結論は、私にとって一番大事なものはコミュニケーションということだ。目の前の相手と完璧なコミュニケーションが取れなくては生きている意味なんて一つもないと思う。結局、19歳の頃に出した結論と同じ。昨日、父親と話していて、父もこの気持ちを未だに持っていると聞いて勇気が出た。
- 私が編集した本が褒められていて(著者のファンってだけだと思うけど。結局、編集者って裏方だし)、シェアしたら、「○○先生の考えを広めましょう」というコメントをもらったが、そこでやっぱり我が出た。心の中で、「は? 私が編集したのよ」と思ってしまった。一応、「ありがとうございます」とだけ返した。
- この仕事をするようになってから、以前より日本語を“適当に”使わなくなったと思う。だけど、そうすると以前のようなキレが文章にはあらわれないような気もする。でもそんなことでしか、“らしさ”が出ないようなら、もともとその程度のものだったのよね。そういうことを村上龍先生は、昔のエッセイで書いている。
- 「結婚式を祝うということが、単身者や同性愛者には呪いになる」岸政彦さん
- みんな自分のことを中二病だと思っていない。故に病気なんだ。私は自分が中二病だと思っている。故に中二病で、病気なのだ。自分が中二病だと認識さえすれば病気は治るだろう。
- 私は基本的に嫌いな人がいない。興味のない人はいるが、嫌いではない。そして、どんな相手にもなるたけ思ったことをそのまま言おうとする。私が言いたいことを言えないのは、傲慢な考えかもしれないが、私ではなく、あなたのせいなんだ。私はあなたをうつす鏡。
- 目の前の人間が何を好いて嫌い、どこで怒り悲しみ喜ぶのかを、話し始めてすぐに判断しなくちゃならないと思っている。初めて会った人には、マックスの神経をフル稼働させて、最高に気持ちいい状態で帰ってもらいたい。そのうち、どれほど相手を想っているかを相手が気づいてくれたなら、しめたものだ。
- 悪いことをして、怒られると思った時に、相手が許したとする。その時には完敗だと思わないか。その度に、救われた気がしないか。
- 結局、気を遣うのは自分のため。相手のことなんて本当は想っていない。いつだって人間は自分が大事で、自分が有利になるために、相手のことをよく知っておこうとするんだ。私はそれがダメなことだとは全然思わない。相手もそうなんだ。そんな時に、少しでも自分の身を削って、何かを捧げるんだ。それが愛だ。
- いま私がハマっているのは、身体論から読み解く現代です。身体性を伴わない人間の行動、コミュニケーション、人間関係……それらは欧米式の生活様式に慣れ親しんでしまった現代の我々には深刻な問題で、今後もしかすると人間は「機械」になってしまう可能性があるということです。すべてがマニュアル化される。
- スマホをよくいじる人(ほとんどの人)は、徐々に前傾姿勢となり、本来のバランス感覚を失いつつある。
- 現代人の9割はストレートネックだと言われていますが、どんどんと視野も狭くなり、空間認識能力を著しく欠き、多くは「生身の相手がいない」世界に生きているのではないか。