prêt-à-porter

私が関わった人間は全て私の作品である

「畑正憲」


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80年代、テレビでよく観た、無邪気な笑顔で動物と戯れる姿──。

今回はなじみ深いその男の、知られざる素顔に迫る。

面と向かうと、子供の頃、よくテレビで観ていたムツゴロウさんのままだ。優しい瞳、あの柔らかな喋り口調。ちょっと意外だったのが、とにかく、煙草をよく吸うことだ。とてもおいしそうに吸う。きけば、18歳の頃から吸い始めたそうだ。「昔はいい煙草のキャッチフレーズがあったものだよ。『たばこは生活の句読点』、『今日も元気だ たばこがうまい』とかね。僕は今でも起きると一服するんだよ。それで煙草がおいしければ、今日も元気だって思う。まぁ昭和の人は味のあることを言ったもんだ」と、目を細めて笑う。50年以上前の広告のキャッチコピーだが、しっかりと身体に留めている。さすが、言葉を生業にする人だ。しかも次から次へと煙草に関する表現が口から飛び出す。

こんなふうに書くと、あれ?と思う人もいるのかもしれない。ムツゴロウさんって動物王国の人じゃないの? と。もちろん、動物王国のムツゴロウさんである。でも、子供の頃から作家になることを夢見ていたムツゴロウさん=畑 正憲は、波乱万丈の人生を送りながら一度も筆を置かずに、79歳という今でも作家活動を続けている。

畑は、天下の東京大学(当時の)理科Ⅱ類、つまり東大医学部出身だ。だが、大学院にまで進んだものの、突然、辞めてしまう。「作家になる夢が忘れられなくてね。このままじゃ、研究者になっちゃう。それでいいのか。もういっぺん勉強し直して、文章で食べていけるようになろうと思ったんです」

大学を辞めて、山谷に移り住んだ。「飯も安くてね。20円出すと、どんぶり飯が食えた。でもその米たるや(苦笑)。いろんな所で集めてきた残飯なんだよ。エビなんか、尻尾と胴体と頭が楊枝で繋がってた。あれもどこかの食べ残しなんだろうね。でも、汚いとは思わなかった。食っていければ、それで十分だったから。山谷は外から見るとゴミ溜めのような場所かもしれないけど、中に入って人と話してみると、皆重い人生を背負いながら精一杯生きていてね。とっても勉強になった時間でしたよ」

山谷時代の話で、もうひとつ印象的だったのが、畑の代名詞でもある麻雀だ。プロの雀師も脱帽するほどの腕前で、麻雀に段位があるのは畑のためだ、という逸話もある。当時はあまりにも生活が貧しかったため、大きく負けない程度の賭けにしていた。その経験が、博打に対する一家言を生む。〝博打は細く、長く、ぶら下がってやるもの〟。

もちろん例外もある。無類の競馬好きでもある畑は、世界中で勝負をしてきた。ニューヨークでは、あの名門ベルモントパーク競馬場で現地の馬券師2人を相手に勝負。7レースすべてに勝ち、2人は途中で逃げ出したそうだ。ある時の中山競馬場では、土曜日の12レース中、11レースをものにした。これはついていると、翌日曜日も出陣。今度は13レースすべてに勝った。電話で妻に報告。すると、「いくら勝ったの?」ときかれた。

「金額を数えるひまなんてないんで、奥さんには〝センチでききなさい〟と言ってやりましたよ」と、当時のことを思い出しながら、不敵な笑みを浮かべる。ブラジルではあまりにも勝ちすぎて、馬券を換金しようとしたら、「今、競馬場にそれだけのお金がありません。後でホテルにお持ちします」と言われたそうだ。

豪快なエピソードの数々に、思わず驚嘆の声を上げると、「全財産を競馬に突っ込んだこともあるんですよ」と、さらに話のスケールが大きくなった。ある時、持っていたトパーズという系統の牝馬が仔馬を産んだ。畑が取り上げた。前脚が出てきた時に暴れていたそうだが、静かにしなさい、と畑がたしなめ、引っ張り出した。通常、生まれたての仔馬は立つのに20分くらいかかるのだが、すぐに自分の脚で立つことができた。直感的に〝いい馬になるぞ〟と思った。そこで自ら育て、競馬場に預けた。名前は〝ムツノグラチエ〟。最初のレース、ゲートの中でバタついてしまい、大きく出遅れた。だが、3コーナーに差し掛かる頃には、前との距離はさほどなくなった。それを見て、「次はゲートの練習だけをさせよう」と、調教師と話した。その練習の結果が問われるレース。すでに作家として大成していた畑の銀行口座にはかなりの預金があったが、その全額をムツノグラチエに賭けたのだ。馬主席で応援していたが、レースが始まると、周りがびっくりするほどの大声を上げていた。「緩めるな、ムツノグラチエ!」。結果、1着でゴールした。馬券を換金してホテルへ戻ったが、その直後のことはほとんど記憶がないという。「よっぽどうれしかったんだろうね」



だが、これは、先述の〝細く、長く、ぶら下がる〟哲学に反することだ。これを続けていたら、自分はもの書きとしてダメになってしまう。それで畑はある決意をする。「とにかく競馬へ行く時、財布の中には10万円しか入れない。それ以上は馬券を買わない。そう決めたの」。10万円しか……。いい話なのか、何なのか微妙なところが何とも畑らしい。

海外へ行くことの多い畑には、数奇な体験が多くある。スリランカの奥地へ行っていた時の話だ。当時、月間100本は下らない連載を抱えていたうちの1本の締切が迫っていたので、首都コロンボのホテルに戻り、執筆に取り掛かろうとした。運転手付きの車で移動中、いわゆるスラムを通った。村の子供たちの間では、車の前や脇スレスレを通り抜ける度胸試しのような遊びが流行っていて、畑の車にも近づいてきた。ところが、そんななかのひとりの少女を運転手が避けきれずはねてしまった。すぐに飛ばされた少女の周りに人々が集まり、道をふさいで騒ぎ出した。畑は車を出て、いちばん大げさに騒いでいるボスとおぼしき男のえりがみをつかんで、こう言った。「今、いちばん大事なことが何かわかるか」。相手はわからないと答えた。「命だ。この子の命だ。わかったなら、道を開けろ」。そう言って、少女を担ぎ、車に乗った。目指すは病院。だが、確実に男たちは追ってきて、自分たちに仕返しをするだろう。道中、警察を見つけた。そこで畑は思いつく。少女は警察に任せて、自分たちの身の安全を確保するために、留置所に入れてもらおう。「いちばん安全だからね。留置所の中で煙草を吸いながら、持ってた小銭で警察官にチャイを買いに行かせたの。それをチビチビ飲みながら、原稿を書かせてもらいましたよ」と、煙草を燻らせながら、懐かしそうに目を細めた。

こうして話をしている間も、畑はずっと煙草を吸っている。自由奔放に生きてきた畑にとって、最近の嫌煙運動は、何とも不自由なものだろう。「不便な世の中になりましたね。でも、ざまあ見ろとも思う。いつか自分たちの身にも、この不便さがのしかかってきますよ」。とはいえ、畑自身は積極的に抵抗活動をするつもりはない。「そんな馬鹿らしい運動に反対することに、人生を使いたくないんですよ。自分が吸いたくなければ、吸わなければいい。それで十分。何で自分たちの価値を人に押しつけるんだろうね。民主主義をはき違えているよね」

自分の哲学を曲げず、自分らしく生きる。問われれば、思ったことを素直に口にする。現在、79歳。煙たい男の手本として、まだまだ活躍してほしい。我々に勇気を与えてほしい。そう伝えると……。「こんな不便な世の中、長生きしててもいいことなんてないからね。早くおさらばしたいですよ。まぁ、棺桶から煙草の煙を出して、おさらばだね」。そんなことおっしゃらないでください、と返すと、少し真顔になって、こう続けた。「人生の目的は、長生きすることじゃないから。今をちゃんと生きないで長生きしてどうするの?って、いつも自問自答していますよ。いつ死んでもいいように、今を精一杯生きる。でも、そうは上手くいかないの。いつも仕事が溜まっちゃってるから(笑)」

最後に、そんな畑の夢をきいた。少し考えてから開いた口からは、思いも寄らない発言が飛び出した。「もし僕に超能力でもあったら、プーチンなんか殺したいなぁ。クリミア半島であんな酷いことをしているのに、偉そうに演説なんかする。テレビに映ってる時、顔に向けて僕がフッって息を吹きかけたら、パーン!と消えていなくなるの」。そう言って笑い、新しい煙草に火をつけた。子供の頃、テレビで見ていたムツゴロウさんとは、何だかだいぶ違うな、と思った。でも、本当にカッコいい人だな、と思った。

MASANORI HATA

畑 正憲 
1935年、福岡県生まれ。54年、東京大学理学部生物学科を経て、生物系大学院へ。その後、記録映画製作に従事したのち、本格的な執筆活動に入る。68年、『われら動物みな兄弟』で、第16回エッセイストクラブ賞受賞。77年には菊池寛賞を受賞。71年に執筆のため、熊や馬を連れて北海道の無人島へ移住。翌年、近隣の町へ移り、ムツゴロウ動物王国を建国。86年には映画『子猫物語』を監督、21年間続いたテレビ番組「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」でも活躍した。