「あなたが怒る時」
人に対してね、怒るってことはね、本当はその人がどういうつもりなのか完璧に理解できなくてはできないはずなのよ。
自分は自分自身のことを理解できる。
対象は対象自身のことを理解できる。
では、
自分は対象を完全完璧に理解しているのか。
対象は自分を完全完璧に理解しているのか。
どちらも理解した時にやっと怒れる。
怒る前に自身の取った言動が相手にちゃんと伝わっていたのかどうか先ず確認すべきだ。何の落ち度もない場合においてGOする(怒る)ことが許される。
しかしどちらかの感情が揺れた時点でどちらかに落ち度がないだなんて到底言えない事態であることもまた事実である。
ただ、そういう風に人間同士が決裂してしまうのは勿体無いと私は思う。
なるべく相手が何を言おうとしているのか、理解しようとしなくてはならない。
私はどちらの言い分もわかる、だからこの様に言えるというものなら、とてもいい。
ただどちらかはどちらかを理解できていない。となるとわかる人がわからない人に説明をする必要がある。そういう努力なしには人間関係や会話は成り立たない。
自分の言動が必ず正しいと思う自信はあって然るべきだし自分のプライドを傷つけられる様なことを言われた時に起こる怒りという感情も仕方のないことだとは思う。
でもそこで相手が本気で自分を傷つける為だけに使っているのかの検証は必要だと思う。
そうでないのであればまだ更生の余地があるからだ。
怒る前には、この流れでのその発言を私はこう解釈するという説明が必要である。
人間はそれぞれ生まれた環境も育ち方も価値観も、何もかもが異なる。だから自分だけのタブーを犯した対象をただ責めるというのは二人の関係を築く上では建設的でない、また大人でない。
先も言ったが、その怒りの感情は充分に理解できる。しかし他者は自分ではない。どちらかが怒ってしまうくらいなら先に自分の言葉の定義や間の取り方、タブー、話の進め方…などの説明を事前にしておくべきだ。それができないのであれば、自分が怒る前にこう思う、こう捉えられると説明をすべきなんだ。
こういう前提条件がクリアされていない者同士の論争や喧嘩の結末というのは水掛け論の様にしかなり得ないだろうし、仲直りをするのなら本来の和解とは一番遠い仲直りの方法をとらざるを得なくなる。勿体無い。
互いが最初から同じ条件や環境で生きていないこと、相手のことを本当は何一つ知らないことを前提とすべきだ。
キレるのは容易。何故キレたのかを聞いてくれる人間であるならば論理的に説明すればいい。それを聞かない相手ならば武力行使以外にはない。しかし我々は大人で、頭があり口がある。話したら必ず互いを理解できる。これは理想論でも何でもない。先ずは、二人でそれをすり合わせる所からだ。
二人の間に齟齬があるのならそれを二人で見つければいい。その時に初めてどちらが悪いかが明らかになる。大概は互いのことをよく知らない為に自分の物差しでしか相手を考えてあげられなかったという点に帰結するはずだ。話し合い理解し合った後ならば、それはあり得ません、そういう場合私は怒ります。と言えばいい。