「私の読書」
私の場合、読書とは単なる追体験だ。
読書をして新しい何かを得られるものと思うのは勘違い、または間違いだと思う。
私はだが、私は書籍「エロティシズム」の中に入り込みたいのではない。
作者であるバタイユとどう(に)かなりたいのである。
例えば書籍「エロティシズム」にバタイユは不在だ。
その作家と私はコミュニカシオンがしたい。私はその作家が捻り出した文章を、その光景をその作家と同じ様に読みたい、見たい。勿論到底無理な話ではある。だけどその努力を怠ることは作家に対して失礼だ。
各々の経験の記憶と書籍のある一文が手を組みシンクロニシティを起こすこともわかる。
大切なことは、まず私がこう思うというものがあり、その後で書物と向き合うことである。その作家によって書かれたものと私の経験してきたこと、考えてきたものが一致しなくてはならない。そう、それは追体験でなくてはならないのである。
私がすべてを知り考え経験していさえすればいいだけなのである。