prêt-à-porter

私が関わった人間は全て私の作品である

「この人を見よ」ニーチェ

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わたしは一個デカダンなのであるが、見方を変えれば、わたしはまたデカダンの対立者である。 

わたしはもろもろの理論と論戦はしない。ただそれらに出会うと手袋をはめるだけだ。 

嵐をもたらすものは、もっとも静寂な言葉だ。鳩の足で歩んでくる思想が、世界を左右するのだ。 

時は秋だ、澄んだ空、そして午後 

弟子たちよ、わたしはこれから独りとなって行く。君たちも今は去るがよい、しかもおのおのが独りとなって。そのことをわたしは望むのだ。 

そして君たちのすべてがわたしを否定することができたとき、わたしは君たちのもとに帰ってこよう。 

認識の徒は、おのれの敵を愛することができるばかりか、おのれの友を憎むことができなくてはならぬ。 
 

本質的に健康な人間にとっては、逆に、病気であることが、生きること、より多量に生きることへの強力な刺激にさえなりうるのである。 

要するに、彼に死をもたらすものでないかぎり、彼を強化するのである。 

わたしは二重存在者だ。 

「よいヨーロッパ人」になることは、わたしにはなんの苦労もいらないことだ。 

そして準備をしないでいるときこそ、もっとも自由に自分の能力を発揮できる。 

わたし流の報復といえば、他者から愚かしい仕打ちを受けたら、できるだけ急いで賢さをこちらから送り届けるということである。 

わたしはわたしの本性上戦闘的である。攻撃することはわたしの本能の一つである。 

攻撃することは、わたしにおいては、行為の表示であり、場合によっては、感謝の表示である。 

それらに味方してか、敵対してかは、わたしには同じことだ。 

わたしは行為が不利な結果に終っても、それは結果であって行為そのものではないのだから、原則として、それを価値の観点から考えることをやめる立場を採るだろう。 

無神論はわたしの場合、本能的に自明なことである。 

神とは、われわれ思索する人間にとっては、大づかみな答えであり、まずい料理である。それどころか、根本においては、われわれに向けられた大づかみな禁止令であるにすぎない。 


「この人を見よ」ニーチェより抜粋
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