何番がお好き? vol.5
- 美の定義というのは時代によって異なる。ただ其の概念は変わらない。美に普遍性をもたせる時、美には醜が、醜には美が存在し、それらは表裏一体であるということを忘れてはならない。
- 一番大切なことは命で、その次には口約束だ。
- 世界は全て誰かや何かの悲しみの上に成り立っていて、でもだからこそ楽観的にしか生きていけない。何処かで何かを諦めながら、その裏なのか表なのかわからないものを掴み取るんだ。
- 私が人を殺したことのあるお嫁さんを連れて来てもノーと言わない親父を私は尊敬している。また私が人を殺したことのあるお嫁さんを連れて来たらノーと言う母親を私は尊敬している。そういう所に僕は在る。
- 父は私のお嫁さんが人を殺した理由を聞いてこない。また聞くとしたらお嫁さんに直接聞くだろう。そして仮に説明をしたら必ず納得するだろう。母はお嫁さんがいる所ではその話を絶対にしない。そして仮に説明したとしても必ず納得しない。
- 社会通念や常識をたてに、自分の落ち度や相手との関係性を省みないことを肉とし、ただ攻撃性のみを有する言葉を押し並べる感情と自我を血としたあなたは、私を殺しました。
- どんなことも一度相手の立場に立って考えること。自分の言動を知ること、それに関して何らかの落ち度がなかったか熟考すること、他者との距離感を間違わないこと、それらを経て、間違いが一つもない場合にやっと他者を批判、酷い場合には否定するに至るはずである。
- 幸せを得るにはまず自分を知ること、そして相手との距離感を間違わないこと、最後に相手のことを考えてやることが必要である。そういう手順を経ることなく幸せや自由や権利などと叫ぶことは愚それそのものである。また醜である。全てが整った上でJAZZやユーモアやセンスが光るものである。
- 立場的に言えることと言えないことがあって、人を批判はしていいが否定はしてはならない。そういうコトワリを知らない人間が全ての責任を放棄した時、今までの縛りがなくなり発言が自由化するわけでは決してない。そしてそれをすることこそが愚の骨頂である。
- 例えば結婚式が明日あるとして、私はお嫁さんと喧嘩をする。その件はお嫁さんが100%悪かったとする。にも関わらずあちらから翌日まで謝って来なかった場合、僕は翌日の結婚式には行かない男だ。融通がきかないだとか大人の対応ではないといくら言われようが関係ない。私は何より義理しか信じない。
- 例えばお互いに分かりきった、本当に分かりきった事柄に関して触れないで置いておくの。そこはいつ回収してもいいという風に。それはお互いに未確認なんだけど、でもお互いにここは同じように思ってるだろうなぁっていう部分で、変な信頼とか、微妙なニュアンスの愛があって。
- 僕は男女問わず友人には小学生のまま接する。そこに恋愛感情も性欲も利害だとか慰謝料だとか賠償責任だとかいった類の私からすると邪な考えを全く用いない。そこにはただ嬉しいとか可愛いとか優しいとか好きだという感情が起こるだけである。それを信頼してもらいたい。その上で僕と友達付き合いをして欲しい。
- 順位をつけなくちゃ平等に接することなんかできないよ。
- 感じ過ぎてしまうことは、感じてないってことになりかねない。
- 泣いている女の子がいた。
- 私からしたら、それは悲しくてではなく、可愛い子ぶる為に泣くパターンだった。
- 女は注意を引き可愛い子ぶり、優しい優しい男が駆け寄り満足。
- 男も泣いていて可哀想な女の子を慰め、自分に酔いしれ満足。
- 仮にそれが幸せなら私はそんな馬鹿げた幸せ今すぐに放棄する。